2018年11月5日月曜日

ハワイ旅行(5) フラショーそしてチップ

 ハワイ旅行する際の心得としてチップは欠かせない。料金の10~15%を余分に用意しておかなければならない。

そういう習慣のない場所でしか生活したことのないものにとっては、本来不要なものを催促されているような気になる。

利用したコンドミニアムにはサービス料も部屋のクリーニング料も別枠にして請求されていたので、枕元にチップを置く必要もなかったが。



フラダンスショーステージの後ろにあるバニアンの木




三日目の夕方無料のフラダンスショーを見にワイキキビーチへ出かけた。夕日が沈んだ後ステージでの音楽やフラダンスは、このハワイ旅行でもっともハワイ気分を味わった時間だったかもしれない。

観客は無料で鑑賞できるとはいえ、きっと彼らはなにがしかの報酬を受け取っているはずだと一般的には思う。ホノルル市とか観光協からの援助なしにはあり得ないだろうと推測するが、

ショーを終えた後、フラガールたちがフラ学校のためにと貝のレイを渡しながら寄付金を募っていた。

私はフラショーを見て、とてもいい時間を過ごせたと思い、US5ドルを渡し貝のレイをいただいた。5ドルでレイももらっっちゃっていいのかなと思いながら。

ステージのフラガールたちは日本人かもしれないと思わせる容姿の人が半数近くいたので親近感もあり、何かお礼の一言をという気持ちもあった。

そんなやり取りをしていると、後ろを通り過ぎる人の会話が聞こえてきた。

”ああやってチップを渡すのね” ”あら、ほんとだ”

私としては、チップというよりは寄付、またはありがとうの気持ちだった。チップのように、そこで働く従業員をサポートするために義務的に払うものではないのが寄付だと思う。


美しいフラダンス


この旅行最後のチップは最終日のホノルル空港行のタクシー。日本人のような容姿と物腰で”ナカムラサマですか?”と聞かれたときから私の頭の中は日本語モードになってしまい、日本語で話しかけてしまった。が、二言目からは英語だった。

それはさておき、このたった一週間のホノルル滞在で自分の変化に気が付いた。この親切なタクシー運転手は ”チップを期待してこのように親切にしてくれるのだろうか”と、彼のサービスは金銭のためなのではないかと思ったのだ。

今までは人に何か親切にしてもらっ時、または気の利いたサービスを受けた時には、ただありがとうという気持で、その言葉を返すだけだったのに。または、こちらが形でお礼をしようと思っても断られることの方が多かった。お金を目的にそんな行為をするとは考えもしなかった。

(逆に、インドのホテで少年のポーターたちがこぞって私のスーツケースを部屋まで運び、少ないチップだとそこを立ち去ろうとせず、そこそこ十分であればさっさと退散した。こんな風に、チップで稼ごうというのが見え見えだと、ある意味納得できるというか、気分的にもすっきりする。)

たった一週間で、私の中で”人はお金のために行動する”という意識が強くなった。こんな風に環境や慣習に影響されやすい自分。ハワイに生まれなくてよかった。生活の拠点を日本またはニュージーランドにできて良かったと思う。親切や善意で生きていける空間がまだ残っていると思えるから。

カメハメハ大王像の近くで


2018年11月2日金曜日

ハワイ旅行(4)-ザ.バス(The Bus)

バスの待ち時間にスケッチ ハイビスカス

今回の旅行で最も利用した交通機関は”The Bus”というオアフ島内全域を走る路線バス。

便利さと低料金で毎日のように使っていたが、ホノルル空港とコンドミニアム間はスーツケースお断りだったのでやむなくタクシー(US$30くらい)。

観光客ももちろん利用していたが、さすが路線バス、地元民が圧倒的だった。いろんな人種の人々というよりは、一人ひとりの人種を特定できない。アジア人のようでもあり、ポリネシアンのようでもあり、インド系でもありそうな。

今年は日本人初の移住者が来てからちょうど150年。ビショップ博物館ではそれを記念した写真展が催され、現在6世代目になると、博物館のガイドも説明していた。ということは、幾度となく生物学的交配が行われたであろうことは予想される。それは日本人に限ったことではないだろう。

バスに乗ってくる人々は通勤、買い物、若い観光客。それに、空き缶を大袋に入れたホームレスらしき人も。

ホノルルのショッピング街、官庁街、観光スポットを網羅するこのバス。

窓越しに見たチャイナタウンは、オーストラリアの都市で見た、とってつけたようなものではなく、中国下町の雰囲気がぷんぷんだ。(と言う私は中国には行ったことがない)バスで通り過ぎるのは平気だけれども、街を歩くのはちょっと勇気がいるかな。

ある日バス通りを歩いていて方向感覚を失った。ちょうどバス停で待っていた人にワイキキはどっちの方向かと聞いててみた。私の英語のせいか、その人の先入観が強かったせいか、”チャイナタウンは’こっちだ、こっちだ”と指をさす。

ん?私、チャイナタウンに行きたいわけじゃないんですけど、、、。

チャイナタウンの反対側がワイキキなので、ワイキキ方面に向かって歩き出した。そんな私をどう思ったかはこの際どうでもよい。


ハレイワのバス停でスケッチ


 バスを利用すると当然待ち時間がある。この待ち時間はスケッチの絶好のチャンス。

ハワイ2日目はバスを乗り継いでオワフ島一周。ええ、たくさんありました、待ち時間。

このバスを利用していて不便だというか、ややこしいと思ったのが、バスが来るべき方向から来ないということ。ワイメア方面からハレイワに着いて、そのずーと先にホノルルなのだから。同じ方向に行くバスに乗ればいいはずと、普通は思うだろう。が、来ない。30分おきに来るはずなのに。

聞いたほうが早いかもしれないと、お店の人に聞いてみたが、”バスは来る”としか言わない。来ないから聞いてるんですけど、、。知らないんです、お店のひとは。使わないんですから。それに、ハレイワの街に路線バスで来る人なんて、あまりいないんでしょう。

反対方向へのバスを2回見送って、つまり一時間くらい待って気が付いた。そういえば、そのバスは30分毎に来ている。

あわてて反対方向行きのバスを待ち、バスの運転手に確認した。やはり、ホノルル方面行だった。どこかでぐるりと回るコースをとってホノルル方面行きの99号に入るのだろう。ああ、ややこし。

しかし、おかげでバス停でスケッチができた。


待ち時間が長くて描くものがなくなり、隣に座っている人を描いた。

2018年11月1日木曜日

ハワイ旅行 (3)-物価

ハワイ旅行前にいくらかのUSドルを用意していた。US1ドルがだいたいNZ1.5ドルなので、この換金の時点でUSドルは高いという認識はあった。

ワイキキビーチ近くのフォートデルッシ公園

初日のパールハーバーで食べたホットドッグはアメリカンらしくない小さな’サイズで、7ドル、つまりNZ$10以上もする。観光地値段なのだろうけれど、日本だったらもっと気の利いたものが食べられる。味としてはまずくはなかったけれども、、、という感じ。

ホノルル空港のスターバックスのコーヒーはUS5.5ドル。それでも、観光客だけでなく常連らしい人達が買っていく。

そんな感じでどこへ行っても高いと感じた。

今回泊まったコンドミニアムは私たちにとっては、申し分ない清潔さと便利さだったが、ニュージーランドやオーストラリアでなら同じグレードで7割程度の料金でで利用できるだろう。

残念ながら比較対象としてヨーロッパの国々は上げられない。なぜなら30年前のツアー旅行で6日間のパリしか経験がないから。

さすがにスーパーでは極端に高いという気はしなかったけれども、USドルの表記であることと、こちらの最低賃金の低さ(時給約US9ドル)を考慮すると、一般の人々の生活の大変さは想像できる。

ちなみにここでは2ベッドルームの賃貸料が約US2000ドル/月だとか。不動産の値上がりが激しい地元NZのオークランドなみというか、それより高いかもしれない。

高くても買う人、買える人というのは世の中にはいるもので、ワイキキに冬物のコート専門ブティックがあった。ここに住んでいる限り必要ないので、冬に備えて北半球の観光客が買っていくのか、ここで冬物を用意して本国やヨーロッパへ行くのだろうか。それにしても、冬物のコートならどこでだって買えるだろうに、普通に防寒できるものなら、と思う。


ワイキキビーチのサンセット



2018年10月31日水曜日

ハワイ旅行(2)ーストライキ

シェラトンホテル前のデモ
ワイキキのシェラトンホテル従業員のストライキについては旅行前から聞いていた。夫と同じ目的でホノルルに向かう調律師の数名はシェラトンホテルを予約していたが、滞在中はシーツ交換されないこと、必要なら用意されてあるシーツを自分で変えなければならないことなど、事前に知らされていたそうだ。

しかし、自分がワイキキのメインストリートを歩いているときは、すっかりそんなことも忘れていたので、デモンストレーションのドンドンチンチンという音に、こんなところにチンドン屋がいるのか、と思った。

シェラトンホテルの前の横断歩道をおそろいの赤いTシャツと,胸には”One job should be enough”と書かれた看板を下げた人々がぞろぞろ歩いている。リズミカルな掛け声と鍋底をたたく音は盆踊りを思い出してしまう。ははん、賃上げ要求のストライキかと、やっと気がついた。

このデモは警備も付き、全く平和的に行われていた。立ち止まってそれを眺める観光客もいたけれども、多くはほかの通行人と同じようにすれ違っていくだけだ。

ストライキというとオークランドでは病院職員やバスドライバーが数日間やっていたし、
もちろん日本でも北教組の教師たちが朝数時間のストライキをしていた、私が子供のころ。(40年前)
実際ホテルに宿泊している人たちへの影響も気になりどのくらい続けるのか、と聞いてみた。15日間だという。それはすごい。

そして、看板の”仕事は一つで十分だ”という意味は?と聞いてみると「従業員のほとんどは2つ3つの仕事をかけもちでしている、賃金が安いのでそうしないと生活できない」ということであった。
ワイキキビーチ

華やかな店やシェラトンホテル、とデモ行進をワイキキの光と影ととらえてしまいそうになるが、モ行進をする人が影で通りを過ぎる観光客が華やかな部分とは言い切れない。

デモに参加している人も、ここで買い物をしたり、ビーチにくることもあるかもしれないし、日本からの観光客にとっても、ハワイの滞在は日常とは違ったものだろう。日本では低賃金で働いている人もいるだろう。という私だって、富裕層でもなんでもない。だからこそ、観光客としてここにいて、このデモを眺めるとき、気持ちが落ち着かなくなる。

その昔、私の最も尊敬するマザーテレサは言っていた。インドのホームレスよりも、アメリカ(US)のホームレスの方がずっと貧しい。それは精神的なものからくるものだ、というようなことを。

私に似合わないワイキキビーチは貧富の差を目の当たりにする、またはそれについて考える機会になった。



2018年10月30日火曜日

ハワイ旅行 7日間 (1)

21日の夜行便でオークランドからホノルル空港へ。日付変更線のため、21日夕方出たはずなのに着いたのはその日の朝。時差ではニュージーランドより1時間早いだけなので、日にちさえ気を付ければ問題はない。

今回は、ピアノ調律師である夫がホノルルで行われる研修会に講師として参加するため、私も一緒に行くことにした。

私は買い物やグルメ派ではないし、泳げないのでビーチで泳ぐこともそれほど楽しみというわけではない。日に焼けるーとか、海水はべとべとしていて砂がはりつくーと思ってしまう。実際、水着は持って行かなかった。
だから、こんな機会でもなかったらハワイに行くことはなかっただろう。


初日に訪れたパールハーバー





ホノルル時間で10月21日から27日までワイキキビーチ近くのコンドミニアム(キッチン付きの部屋)に宿泊した。
ワイキキビーチと巨大ショッピングセンターアラモアナの中間地にあるこのタワーの26階に泊まった。



その間に訪れた場所は
パールハーバー、ビショップ博物館、ハワイ州立美術館、ダイアモンドヘッド、マノア渓谷(入り口まで)、ワイキキビーチと,島一週を路線バスで回った時に立ち寄ったカイルアとハレイワの街。
自分の想像していたハワイと違っていて、とても興味深いというか、おもしろかった。

ある日のホノルル市内からの帰り、ちょうどバスの通り道にドンキホーテがあって(私はまだ日本のドンキには行ったことがない)立ち寄ってみると、片隅にブックオフ。そこで池澤夏樹の”ハワイイ紀行”を見つけた。

このハワイ旅行中、前半は持参したパウロ.コエーリョの”アルケミスト”、後半は”ハワイイ紀行”を合間の時間に読んでいた。

この2冊の本のおかげもあって、ずいぶん充実したハワイ旅行になった。

明日から数日間、ホノルルで見たこと感じたことをまとめてみようと思う。


2018年7月20日金曜日

昨夜の夢 バス

時々バスの夢を見る。幼稚園から中学を卒業するまで、一時間に一本しかない路線バスで通っていたからかもしれない。

バス停に行く途中で車にはねられたこともあるし、時間の感覚に疎い私は乗り遅れることもよくあった。バスが来てから家から走ることもあったので、バスに乗るとほかの客は私を責めるように見るし、気まずい思いもした。

それならきちんと時間より前にバス停に行って待っていればいいのに、なかなかそれができなかった。そんな癖は今でも残っていて、夕食が出来上がるのはいつも7時ぎりぎりか、それより少し遅れてしまう。

昨夜の夢では出かけた帰り、家まであともう少しというところま歩いたが疲れ切ってしまい、バスに乗ることにした。

たった2つのバス停の区間なので、乗り過ごさないように注意していたにもかかわらず、街はずれの小さなスーパーまで来てしまった。その先はもう家もないような道になっている。何とかバス停ではないところで止めてもらい下車したが、車内に忘れものをしたことに気づいた。

どうやって連絡したらいいだろうと考えながら、乗る時より遠くなってしまった帰り道、くらい坂道を歩いていた。

という、それだけの夢。

13x17cm watercolour

2018年7月19日木曜日

図書館でデモンストレーション

オークランドは今アート月間で、市内の図書館で毎日交代で絵を描く、というイベントが行われている。私も、参加しているグループを通じて先週一日と今日、二日間3時間づつ図書館でデモンストレーション。

特別誰かか張り付いて見ているわけではなく、図書館に来た人が”なにかやってるな~”と眺めては去っていくという気軽なもの。

持参した数枚の小さな絵はテーブルに乗せ、少し大きめのデッサンはテーブルに立てかけてちょっと雰囲気づくり。私はペンとパステルを使って絵を描く。

実際会話をしたのは3組くらい。描いているのをじっと見ているのは決まって子供たち。
黒い紙に白のペンで顔を描いていたが、ペン先から白いインクが出てきて線になるというそれだけを見つめている。一瞬、一緒に描いているような感覚を味わいながらスローモーションの時間が過ぎる。

その子のお母さんは、子供が絵に興味を持つことに好意的だが、ずっと子供に付き合っているわけにもいかず、次の用事を子供に告げて去っていく。

不思議に人前で絵を描くのは抵抗がない。マーケットで一枚15ドルの似顔絵師でもやってみようかなあと思ったりもする。



今日図書館で描いていたパステルの絵。マンレイの白黒の写真を白ペンとパステルで。

2018年7月18日水曜日

片づけ そして読書

15x15cm  acrylic on canvas 


先月日本へ帰省し、その後数週間は一日中アクリルで絵を描いていた。

アトリエとして使っていたサンルームは暖房しようにもスカスカで、温まった空気はそのまま外へながれてしまうので、ストーブは使えない。寒くてそこでは絵を描く気になれなず、居間のテーブルを使っていた。

すると、サンルームに置いていた画材が必要に応じて次々に居間に持ち込まれ、描いた絵も増えて、居間が雑然としてくる。

先週それが限界に達し、片づけを始めた。そのついでにサンルームの棚を整理したり、処分せずに残しておいたデッサンや水彩画を見直し、作品を作るのに使えそうなものを選んだりした。その収納場所は段ボールを使っていたが、板を組み立てたものを夫に作ってもらった。

画材などは収まるところに収まり、サンルームの机の上も片付いて、パソコンもすぐ使えるようになった。

去年タブレットを買ってから、パソコンを使う機会がかなり減り、2,3週間開かないのが普通になっていたが、

片づけを終えたこの一週間、毎日パソコンを開きこのブログを更新している。そして、ブログを書くと本が読みたくなり、先月日本から買ってきた古本の小説を次々に読んだ。そして日本語の小説を図書館でオーダーし、角田光代の小説18冊がもうすぐ近くの図書館に転送される。

部屋のかたずけが描く意欲ではなく読む方へ変わったのは、きっと本来の私がそれを望んでいたのだろう。と、もっともらしい言い訳をして、働く夫に多少ののうしろめたさを感じながら、小説を読んでいる。

2018年7月17日火曜日

鳥の餌

散歩の途中、庭の芝生に食パン一斤くらいばらまいているのを見かける。鳥がつついて食べてしまうので、半日もすればきれいになくなてしまうんだろうが、

もったいないな~、食べられそうなのにと思う。そのパンにカビが生えていたり、ガチガチに乾燥していたとしても、そうならないうちに食べたり、または冷凍保存もできるだろう。どちらにしても、やっぱりもったいない。

車で15分くらいのところに大きな池がいくつかある公園があり、、アヒルや黒鳥、カモがたくさん集まってくる。そこでよく見るのが、鳥がついばむ以上のパンを次々と池に放り投げるように与える人。

日本ではそういう光景を見たことがなかった。日本では食べものを大切にし、節度を持つ人が多かったなあと、また日本人びいきの私は思う。


小さなキャンバスにアクリル絵の具で
15x15cm acrylic on canvas

2018年7月16日月曜日

移住して20年目

私たちが移住するためにニュージーランドに来たのが1999年5月だった。だから正確には19年と2か月。二人の子供たちにシュタイナー教育をという高尚な目的があった。当時は東京に一校あるだけで、それも小学校までしかなかった。

東京に住むつもりは全くなかったので、海外に移住して
シュタイナー学校に通わせるという選択肢しかなかった。移住先は英語圏から選ぶことにした。夫も私も特別な英語教育は受けていなかったが、ほかの言語がゼロだとすれば、英語ならそれよりは何とかなるかもしれないと思い、移住の条件が最も低かったニュージーランドに決めた。

幸い、夫は移住に必要な英語もパスし、オークランドに住み始めて半年で永住権を手に入れることができた。

もともとシュタイナー教育が目的で来たので、まずは子供たちが高校を卒業するまではこちらに住もうと決めていた。その後のことは考える暇もなかったし、その必要もなかった。

早いもので、次男が無事シュタイナー学校の高校を卒業してから、もう5年たっている。移住の当初の目的は果たし終え、ここに住む必然性はなくなったが、私たちはまだオークランドに住んでいる。当たり前のように。

毎日手作りの納豆とみそ汁を食べ、家族では日本語を話し、私の思考はいつだって日本語である。今はネットで日本のニュースはいつでも読めるし、アジア系のスーパーもそこここにあるので、日本にいた時と同じような献立を作ることも可能になった。外国に住むとことが、もう特別なことでななくなっている。

私自身、移住したばかりの時のような、こちらの社会に溶け込もうという気概も失せて、日本人である私のままでいいんだと思うようになった。自分の好きなこと、“絵”を通して社会とのかかわりを維持できればそれで十分だと。

思えば、30年前北大病院の看護婦だった頃、看護師の留学情報というような本を買って読んだことはあった。当時の私にとって海外暮らしは、夢のまた夢。英語も苦手だったし、海外旅行もツアーでインドとパリにそれぞれ一週間程度行ったったことがあるだけ。そんな私が、ここでこんな風に生活しているなんて、不思議というか面白いものだと思う。


10x10cm acrylic on board


2018年7月15日日曜日

算数 たすき掛け

中学まで、自分は算数は得意なんだと思っていたが、高校に入ってすぐに、そうではないことが分かった。高校数学は全く理解できなかった。毎日のように数学の時間があったが、その時間を別のことに費やしていたら、どれだけ有意義に過ごせただろうと思う。それは、数学の時間に限ったことではないけれども。

今でも使う算数といえば、お調理の時に使う分量の換算に”たすき掛け”。

例えば お料理の本に4人分の材料がでていたとして、それを5人にするとか、7人分にするとかといった場合。または味噌を作るときの米、大豆、塩の量。いつもは4キロ作っているが、タッパーの大きさによって5.5キロにするというときに、この”たすき掛け”はとても役立つ。

これを習ったのは、確か中学の2年生だったと思う。私はほとんど学校を休んだことはなかったが、たすき掛けを習う日に風邪で休んだ。親切な数学の先生が、ここは大事だから、○○さんにきいておくといいよ、とアドバイスしてくださった。単純な計算だけれども、知らなければすっとこの計算に苦労していたかもしれない。

幸い、この親切な数学の先生のおかげで、味噌作りも、パン焼きも難なくできる。ありがたい。

これまでの私の生活で、このたすき掛け以上に算数らしき算数を使う機会はなかった。看護師、保健師として働いていた時も四則計算を正確にできれば困ることはなかった。

高校の授業はほとんどが受験のため。もともとその分野が不得意なら、そこにどれだけ時間を費やしても、集中もできないし効果も上がらない。十代の貴重な時間をそんな風に使うなんて、なんてもったいないことだろうと思う。


15x15cm Acrylic on Canvas




2018年7月14日土曜日

弘前の本屋

30年以上前、弘前市に3年間住んでいた。今は無き、国立大学医療短期大学部という大学とも短大とも言えない学校の看護学科に通っていた。進路に関しては仕事と直結する分野しか考えられなかったし、なんとなく医療関係の仕事が面白そうだと思い幾つか受けたが、合格できたのはここだけで、しかも補欠だった。

この学校はいわゆる当時の看護学校のように病院に詰めて実習するというタイプのものではなく、9時から3時までの実習という期間はあるけれども、それ以外は校内で必要な科目を履修したり、症例研究や実習の準備学習だった。

こういう中途半端な学校形態だったため、大学に行っています、と言えばウソを言っているような気持ちになるし、かといって看護学校とも言いたくないささやかなプライドも持っていた。そんなことどうでもいいことなのに、と今なら言えるけれども。

この学生時代の3年間は安アパートで独り暮らしをしていたが、きっと普通の大学生もそうだったように、時間はたっぷりあった。もともと本を読むのが好きだったので、繁華街にある紀〇〇屋書店や、何件もあった古本屋へも通った。

今はブックオフでそれなりにきれいな中古本が安く手に入るけれども、当時の古本屋では煮しまった本が無造作に置かれているのが普通で、その中から気に入った本を見つけ出すのが楽しみでもあった。

確か学生2年目の時に弘前市の繁華街に丸〇書店がオープンした。看板の丸〇の文字が光っていて、二重になったガラスの入り口を通ると店内には新刊書、専門書がぎっりとと並んでいる。知的なにおいがプンプンし、そこにいるだけで自分が時代の先端にいるような気分になった。

当時はやりだったポストモダン関係のコーナーはひときわ輝いていて、本を手に取ってペラペラめくっては、いつか買って読もうと決意した。残念ながら、そのたぐいの本は、この生涯で買うこともなく読むこともなかったが。

その若き日の思い出が詰まった弘前の丸〇書店へ、数年前日本へ帰省した際に30年ぶりに行ってみた。当時の自分に会えるのではないか、失ってしまったかもしれない希望とか夢などを取り戻せるのではないかという期待を持って。

シャッター街とまでは言わないまでも、当時繁華街だったその通りは舗道はきれいに整備されているにもかかわらず、人通りがほとんどなかった。この街も他の地方都市のように中心的な商業地域は郊外に移ってしまったのだろう。

丸〇書店の看板の文字は多少褪せているような気もしたけれど以前と同じで、当時がよみがえってくる。ガラス張りの入り口を30年前と同じようにドアを押して入った。

30年が経っていた。たりら~ん、たりらりら~ん w(゚o゚)w 

20歳だった私は50を過ぎている。

こんなに狭かったっけ。こんなに暗かったっけ。専門書が壁にぎっしりつまっていたはずなのに。並べられた本は、なんとか隙間を埋めている。ほかに客もなく、レジに一人担当者がいるだけ。お店が変わったの、私が変わったの?

浦島太郎の玉手箱、開いてしまった。現実。




16x12cm Acrylic
しずく

2018年7月13日金曜日

ホットケーキを描いてみた。

ずっとブログを描くのをお休みしていたので、アップしていない小さなアクリルの絵がたくさんある。これも3か月くらい前に描いたもの。

こういう甘いものは見た目が派手なので描くには面白いかもしれない。でも自分の部屋に飾る気にはなれない。甘いものに対する食欲をそそられてしまいそうで。

先日もオークランド西地区の新聞に肥満の話題が出ていた。本当にこの国の大きな問題。
フィッシュアンドチップス持ち帰りの店とチェーンの安売りピザ屋はいたるところにあって、金曜日の夕方は行列になっている。

商店街を歩く子供たちに、なんと肥満が多いことか。これは全く親の責任、または社会の責任としか言いようがない。

共働きをしなければ生活していけない経済状況、そして共働きをしていれば食事に手を抜きたくなる。そうでなくても、日本人の私から見ると、この国の人の多くは実に調理に時間をかけないし、メニューもワンパターン。外食をしたくなる気持ちもわからないでもない。

ニュージーランドのいろんな良い部分は認めながらも、食文化に限っては日本はやっぱり素晴らしいと思うのは、20年こちらに住んで、日本知らずの浦島太郎状態になっているからなんだろうか。



15x15cm Acrylic on cardboard


2018年7月12日木曜日

水曜デッサンクラス

昨日は水曜デッサン会。参加し始めて10年になるけれども、その間に参加人数が減ったり、会場の賃貸料が上がったりと経済的には大変になっている。それでも何とか今まで続いている。

仕事も趣味も長続きしなかった私が10年もこのクラスに参加し続けてきた。入れ替わりにいろんな人が参加しては、来なくなっていく。引っ越したり、病気になったり、亡くなったり。

水曜の午後12時半から3時半までの3時間のクラスなので、仕事を持っている人は余程の意思を持って時間に都合をつけて参加している。

私はここ8年くらい仕事はしていないし、以前パートタイムで働いていたときは、たまたま水曜日は仕事が入っていなかったので都合がよかった。

こうして自分の好きなことをできる環境が続いていること、なんて恵まれているのだろうと時々思う。


以下、昨日のデッサン会で描いたものの一部。A3サイズの新聞用紙に黒コンテで。15分から25分で描いた。










2018年7月11日水曜日

日本のお菓子 アクリルで

描いたのは3か月以上前になります。このお菓子、近くに住む日本人の方からいただいたもの。あんまり可愛い包装だったので、食べちゃうのはもったいないな、と思って。

You-tubeのポルカのエさんに触発されて、黒地のバックにリアリスティックに。何度も塗り重ね、丁寧に仕上げました。

このお菓子を描いて、アクリルでかなりリアルに描けることが分かったので、何枚か写真を見て描いてみましたが、そこそこには描けるけれども、ここまでリアルになりませんでした。やっぱり、実物を見て描くことは写真を見て描くのとは違うのかな。そりゃ、ちがうわよね。



acrylic on canvas    15x15cm

最近は絵を描くのに右往左往している。リアルに描いてみたり、イラスト風に描いてみたり、抽象画風にしてみたり。いったい私はどんな絵を描きたいのだろうと。それも考えてわかるものではなく、描いてみて、または描きながらわかっていくのだろう。

考えてないで、たくさん描いてみること。

どう生きるべきかとか、何が幸福かとか、考えることにもう飽きてきた。